【つくば市】谷田部地区散歩♪『飯塚伊賀七』と『不動松並木』って?
昔ながらの街並みが残るつくば市南部の谷田部地区。かつては谷田部町でしたが、1987年に、筑波郡豊里町・大穂町・新治郡桜村と合併されてつくば市となりました。
江戸時代には谷田部藩が置かれ、陣屋町として栄え、商業の中心地、交通の結節点として賑わったそうです。
そんな谷田部ですが、このような言葉が残されています。
【谷田部に過ぎたるもの三つあり 不動並木に 広瀬周度 飯塚伊賀七】
谷田部から出た素晴らしい3つの景色や人物を謳っています。
①『不動並木』
不動にあった松並木のことだったのですが、結論から言うと、もう松並木は残っていません。しかし石碑や、切株などは所々に遺されており、当時の雰囲気を感じることができます。
現在の茨城県立つくば工科高等学校の脇にあった約200mに及ぶ松並木でした。昭和33年に茨城県指定天然記念物となりましたが、松が枯れてしまったため、現在は指定は解除されています。
沿道にその数大小合わせて約200本の松の木が立ち並ぶ様子はさぞかし立派だったことでしょう。約300年前、時の谷田部藩主細川興昌が参勤交代の便宜上、細川氏の領地の中で江戸に最も近い当地に栃木県茂木より居住を移した時、「城下町の形態を整えるため松を植樹したのが始まり」と推定されています。
②『広瀬周度』
広瀬周度は、谷田部藩医の周伯の嫡子として1782年に生まれ、自身も藩医を務める一方、蘭学を研究し、書画にも通じていた人物です。羽成観音堂の天井画は、周度が16歳の時の作と伝えられています。妖艶な天女の絵が、16歳の時の作とは驚きです。周度は蘭学や洋学を学んでいたということで、天女の絵画は、日本画でありながらも、どこかヨーロッパの美術の影響を受けているような印象もあると語る人が多いようです。
③飯塚伊賀七
飯塚伊賀七は、江戸時代後期に谷田部に生きた発明家です。庄屋(村の首長)を務めるかたわら、建築・和算・蘭学などを学び、からくりや和時計を数多く製作したほか、飛行実験、地図製作、多宝塔や五角堂の設計など多方面で活躍し村人を驚かせました。【からくり伊賀七】と呼ばれ、谷田部を象徴する人物となります。最近では「つくばのダ・ヴィンチ」と呼ばれるようにもなりました。
谷田部商店街の近くに、伊賀七が設計した「五角堂と和時計」が、県の指定史跡となって復元、保存されています。
この場所で見学できるのは五角堂の外観のみとなり、復元された和時計は、谷田部郷土資料館に展示されているとのことです。
伊賀七の生きた時代から数世紀が過ぎた頃、つくばの地に筑波研究学園都市が建設され、2009年には「ロボットの街つくば」が提唱されました。「ロボットの街つくば」の提言の中で伊賀七は、からくり=ロボットの開発者として、「ロボットの街つくば」の原点として紹介されたのです。
谷田部郷土資料館(拝観無料・写真撮影禁止)では、江戸時代よりもっと昔の縄文・弥生時代の頃の谷田部の様子や、伊賀七の和時計(復元)、周度の天井画、不動並木の当時の写真など、もっと詳しく知ることが出来ます。ご興味を持たれた方はぜひ谷田部郷土資料館に行ってみてくださいね☆
また、歩いて谷田部街道巡りをしながら、谷田部商店街を食べ歩きするのも楽しいかも♪
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